の伝言

 最近、メディアを通じて遺伝子組み替え食品の抜き打ち検査で未承認遺伝子組み替え原材料の使用が確認され、製品の回収がされている。
遺伝子組み替えについてはその安全性から賛否両論が紛糾し、まだ決着は着いていないし、未知のたんぱく質の危害・危険も「ヒト」が体内に取り込んでから異常や危害が発症するまでの現実での人体実験も済んでいない。
この遺伝子・DNAを人智で操作するということへの『神の領域』か『科学の幸福』かという論争で語られる場面も多い。また、世界の食糧難による飢餓、途上国の貧困による飢餓で死んでいく子どもたちの悲惨を訴え、この遺伝子組み替えは安価な食糧の生産となって彼らを救うので、満たされた人々が危惧する将来の安全を否定し、この悲惨な人々を見捨てるのかというもっともらしい論も散見する。だが、この人口問題と食糧難を同じ土俵で論じることそのものが結論を恣意的に導くためのあざとさを感じる。
表現すると過激になるが、人口増加がなされていくと「種」は自然淘汰を選択し、人口が減少するように「種の保存」が自然の摂理で働くのではないか。
地球と言う生命体が持続するために「種」が淘汰されるのあればそれはあがなうことの出来ない将に「自然の摂理」だ。
現在の飢餓と貧困、途上国の悲惨は世界の主要国によるあくまでも人為的な餓えと貧困の再生産ではないのか。国土は肥沃であったはずのものが、他国の経済活動の呷りで負を押し付けられたといってもいい状況が現時点の途上国の悲惨ではないか?流通の仕組み、経済の血流の仕組みを操作することは遺伝子組み替えの科学技術より困難なのか。

飽食で病に倒れる国々の食糧への不遜さを途上国への真摯な自省に導けば解決可能な問題は多いのではないだろうか。科学の進歩だけではない、人間の知性が貧困と飢餓を救えるのではないか。人間が人間を救うのだ。
そこには一点の曇りも無く、手を差し伸べられるはずだ。それは救う人間が本当は救われることなのではないのだろか。

また、経済的なランニングコストを標榜しながら、遺伝子組み替えの作付面積が米国において減少していると言う。その主因は予測より組換え食品が低コストにならないこと、米モンタント社の「遺伝子のタネ」が売上に繋がらないということで、作付面積が減っていると言うのだ。それ故に来年以降は遺伝子組み替え食品そのものが市場に出る数量が減少していくという。
まさに、これこそ「経済」の正直な答えだ。「需」のないところに「給」は存在しないのだ。科学技術者の「遺伝子操作」と経済活動信奉者の「市場独占」の見果てぬ夢の茶番だ。遺伝子組み替え原料という利益の上がらない嫌われモノを飢餓から人々を救うためにを献身的に生産しつづけてくれるというのなら、いずれノーベル平和を受賞できるかもしれないが。