伊藤整について

 伊藤整(ひとし)は明治38年1月17日北海道松前郡白神村に昌整を父としタマを母として生る 5歳以後忍路(おしょろ)郡塩谷村に住み塩谷小学校、庁立小樽中学校、小樽高等商業校を卒え市立小樽中学校の教師となる その間専ら詩作に心を傾く のち東京商科大学に入学せるも中途に学業を放棄して文筆活動に入り小説、文芸評論の述作に従う 詩集に雪明りの路、冬夜あり 小説に生物祭、街と村、得能五郎の生活と意見、鳴海仙吉、火の鳥、若い詩人の肖像、氾濫、年々の花、変容等あり 評論に新心理主義文学、小説の方法、小説の認識、女性に関する十二章、日本文壇史等あり 伊藤整全集十四巻、伊藤整作品集十巻等の刊行を見る この間日本大学、北海道大学、早稲田大学に文学語学を講じまた東京工業大学に教授たり その後日本近代文学館ゝ長となり日本ペンクラブ副会長、文芸家協会理事を兼ぬ 昭和42年小説と文芸評論における過去の業績に対して日本芸術院賞を授けられ翌年日本芸術院会員となる 昭和44年11月15日病に斃る 享年64歳 昭和44年11月28日 勲三等に叙せられ瑞寶賞を授与せらる 塩谷在住及出身の郷友等その文業を彰さんとしその詩想の根源をなす故郷の海を一望する地に碑を建て題字を北見恂吉氏に乞い詩海の捨児の冒頭の二聯を刻む

昭和44年11月  川崎 昇  識
 (伊藤整文学碑裏面に彫られた履歴。故人の遺志により、川崎昇氏が文を撰す)